土佐を冠する唯一のみかん”土佐文旦”の歴史
土佐文旦の生産量日本一を誇る高知県。その中でも特に栽培が盛んな地域が高知県の西部で、宿毛市や土佐市はまさに土佐文旦の一大産地となっています。その背景には栽培に適した気候や豊かな自然をはじめ、栽培に情熱を注いだ農家の存在や、土佐文旦が持つ本来の「味」の良さがあります。今回はそんな土佐文旦の栽培が高知県で広まる歴史について紹介します。
室町時代に海を渡ってきた”文旦”!
ブンタン類はマレー半島の原産で室町時代末期に九州に伝播したといわれ、現在では九州と四国を中心に多くの地方品種が栽培されています。
その中でも「土佐文旦」は現在、日本において最も多く栽培されているブンタンの一種です。その栽培は昭和4年(1929)に高知県農事試験場の園芸部長であった渡辺恒男氏が鹿児島県の「法元文旦」を持ち帰ったことから広まったといわれています。
その原木は、現在の高知市内にある農業技術センター果樹試験場の敷地内に植えられていましたが、その後移植を経て枯れてしまいました。
しかし、現在高知県で栽培されている土佐文旦はすべてこの原木を母樹として増殖したものです。
高知への導入と拡大
文旦は高知に導入当初、適切な栽培管理方法も不明であったため、栽培者は大変苦労をしたといわれています。栽培者の一人である宮地氏(土佐市)によると、販売はさらに大変であったそうです。知らないミカンを買ってもらわねばならず、高知市内の青果店では「このミカンは一個売るのにお客さんに一個食べさせぬと売れぬので大損だ。」といわれていたそうです。しかし、味の良さからだんだんと人々の間に浸透していき、栽培する農家も増えていきました。その結果、栽培面積は平成5年(1993)頃までにかけてどんどん増加し、高知は文旦の一大産地となりました。
土佐文旦発祥の地 記念碑文より引用
土佐文旦の由来
黎明 野山を照らす農業の先進地宮ノ内では 古来より金柑・温州・文旦・八朔などの柑橘を魁て栽培してきた。
中でも土佐文旦は 昭和十八年宮地文弥氏が果樹試験場より苗木を導入し 昭和廿一年より宮地正憲氏が受け継ぎ育成 弟和夫氏と共に栽培技術を模索研究し技術体系を確立する 更に正憲氏は販売に新分野を開拓し市場流通体制を整え発展の基礎をつくり 土佐文旦を不動のものとした功績は誠に大である。
また草創期より宮ノ内の生産農家も意欲を傾注し相共に取り組み 苦節を重ね土佐の特産果樹として一大主産地を形成してきた。
今ここに宮地一家の偉業を讃え 郷土の久遠の発展を祈念しつゝ碑を建立する。平成七年十月吉日
宮ノ内部落 建之
”土佐文旦”という名称
昭和4年(1939)に鹿児島県から高知県に導入された文旦ですが、当時は様々な名称が使用されていました。現在のように「土佐文旦」という名称に統一されたのは昭和34年(1959)で、高知県に文旦が導入されてから30年が経過していました。
昭和36年(1961年)には田中長三郎博士(右写真:南方熊楠顕彰館(田辺市)所蔵)が正式に「土佐文旦」と命品し品種名となりました。
昭和4年(1939)に鹿児島県から高知県に導入された文旦ですが、当時は様々な名称が使用されていました。現在のように「土佐文旦」という名称に統一されたのは昭和34年(1959)で、高知県に文旦が導入されてから30年が経過していました。
昭和36年(1961年)には田中長三郎博士(右写真:南方熊楠顕彰館(田辺市)所蔵)が正式に「土佐文旦」と命品し品種名となりました。
土佐文旦の本場”宿毛”!
土佐文旦は生産の90%以上が高知県で行われているみかんですが、その中でも宿毛市は二番目の生産量を誇ります。宿毛市を含む高知県南西部は年間を通して温暖な気候であることから、みかん栽培に最も適して場所と言われています。おおぐし農園は、この土佐文旦の一大産地である宿毛市に腰を据え、日々全国のお客様へ美味しい土佐文旦を直送するべく現場に立っています。
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